遼遠の空



          一

石と砂―――砂塵に黄色く霞む空。
照り付く赤鴉。
額に滲む汗を拭い、イズモはその日何度目かの溜息をついた。
炎天下の荒野をひとり一昼夜歩き続け、ようやく目的地が見えたときには涙が出るほど嬉しかったものだったが、それから半日・・・
砂塵にかすむ深緑の郷には未だ辿り着くめどさえつかない。

「ち・・・くしょ・・・」

聞くもののいない枯れ果てた土海に、イズモはやり切れず一人毒づく。
「これが蜃気楼ってヤツか? それとも俺の目がイカレちまったってのかよ・・・」
延々と続く砂土のほかに比べるものなど皆無に等しく、必死で歩いたその半日で熱砂の果ての目標物にどれほど近付いたものなのか、皆目見当も付かない。
確かに視界にあるそれは、砂塵の空に褐色の夢のように姿を現して以来、全く大きくなっていないような気さえするのである。
ざくざくと鈍い音を立てながら、足は彼方に見える古の遺跡を目指して進む。
疲労は既に限界を超え、今にも崩れ落ちそうな体をただ気力で励まし続ける状態である。
朦朧としつつある意識を、手のひらを握り締めて何とか繋ぎ止める。
褐色に染め上げられた世界。足元に出来た自分自身の影だけが、ひどくはっきりと墨色を浮かび上がらせている。
その影で休むことが出来たならどれほど涼しいだろうと思うのだが、どんなに小さく屈み込んでも、己の影に入れるはずなどない。
(もう諦めちまえよ・・・)
頭の片隅で囁き続けるそんなもう一人の自分の誘惑を聞きつつ、目の前にはゆっくりと枯れた土が迫ってきた。

「おまえ、何者だ・・・」

意識を手放すその瞬間、誰かの玻璃質な声が小さく鳴った。


「ああ、目が覚めたか」
後ろ姿の、黒い衣を纏った小柄な人が発した声に、イズモは慌てて飛び起きた。
「・・・君は・・・」
困惑したイズモの声に、揶揄するような声音が返る。
「随分とゆっくりお休みだったな。おまえ、丸1日寝ていたぞ」
「君は・・・女?」
足の先から頭のてっぺんまで、目の周り以外を全て覆い隠す民族衣装。
そのわずかな隙間から覗く青磁のような双眸は、ひどく美しく、どこか憂いを帯びているようだった。
「違う。俺は女なんかじゃない。だが・・・男でもないか」
『それ以上問うても無駄だ』と、彼の眼がはっきりと語っていて、イズモは話の方向転換を余儀なくされた。

適度に与えられた食事は今までに見たこともない果物で、衰弱した体には丁度良い水分と糖分だった。
充分な睡眠と食事、元来の体力も手伝って、翌日には一人で歩きまわれる程に回復していた。
小屋の中に主の姿は見えない。ゆっくりと室内を観察していくにつれ、イズモはある推測を確かな事実として認識する。
まだ到底大人とはいえぬ少年一人が住まう仮屋にしても、ここにあるものといえば、さっきまでイズモが横になっていた寝具ともいえぬような厚手の敷布と水瓶、そして・・・

「おい、何をしている」

入り口を見やると、そこにはここの家主が静かに、しかし確固たる殺気を帯びて外界からの光を遮っていた。
彼の左手には、その身長をゆうに凌ぐ長さの鉾が握られている。
「ごくろうさん。で、今日の獲物はどうだった?」
イズモは少年の鋭い眼光を浴びながら少しも怯むことなく、毅然とした態度で笑顔を向ける。
「・・・貴様、何が言いたい」
「あ、そういえばこの通り、元気いっぱいに復活しました。色々と助かったよ」
  そう言って入り口の方へ向かうイズモを、少年は微動だにせず睨み続ける。
と、次の瞬間、乾いた空気の中を黒金の刃がイズモの足元、爪先に程近い所へ勢いよく突き刺さった。
しかし、乾いているのは空気だけに止まらず、いま自分たちが踏みしめているこの地面すら水分を欲しているのである。
足元の武器は大地の支えを得ることを許されず、音もなくその体を横たえた。
「これ、たしかクナイっていうヤツだよな。ずっと昔に一度だけ見たことがある」
そういって砂の中から拾い上げると、まじまじと手の中の武器を観察する。
「あんた、一体ここで何してるわけ?」
悪びれる風もなく、全身から好奇心の塊を少年にぶつけては、柄の元にある輪に指を入れてくるくると回し始める。
猜疑心というものを微塵も感じられないイズモに、少年はようやく自身の殺気を解いていく。
そして頭から被るように纏っていた黒い衣を、そっと肩の位置まで下ろした。
「あれ? やっぱりアンタ女だったんじゃ・・・」
「・・・ちっ、いちいち五月蝿いやつだ」
黒布から現れたそれは、人形と見間違えるような真っ白い素肌と、今にも壊れてしまいそうな程に整った美しい顔立ち、そして溢れんばかりに揺蕩う長い黒髪だった。
その肌の白さはまるで白磁の如く、瞳の色は黒曜石がそのまま入り込んでいるかのような漆黒で、夜に流れる天の川を彷彿とさせる長い髪はどこまでも艶めくものだった。
こんな容姿の人間が果たしてこの世にいたのだろうかと、イズモは自分の眼を疑って何度も瞬きをし、砂埃の付いた腕で幾度も両目を擦る。
そうしている間に、この小屋の主は空気の振動さえ起こすことなく、いつの間にか室内に入り水瓶から生命の源をその白い喉に流していた。
「おまえ、もう歩けるようならさっさとここから出ていけ」
喉を潤し終わるや否や発せられたその言葉にイズモは眼を丸くして答える。
「そんな、ヒドイこと言わないで下さいな。まだまだ病み上がりですよ。それにこっちの質問に答えてもらってないしね」
持っていたクナイを持ち主に差し出し、実に楽しそうに笑顔を作る。
「こんな奴、あのまま放っておいて野垂れ死にさせておけばよかった・・・」
深い深い溜め息をつき、イズモの手から力なくそれを受け取る。
そしていかにも億劫そうに服の中にしまうと、ようやく少しだけ、顔をほころばせた。
「うんうん、女の子はそうやって笑ってた方がベッピンさね」
カラカラと、イズモは頭の後ろで手を組み、さも嬉しげに笑っていた。
「おっと、自己紹介がまだだったな。オレはイズモ。イズモノタケルって言うんだ。アンタは?」
「お前に名乗る筋合いはない」
言いながら、今度は全身から黒衣を脱ぎさる。
見たことのない民族服に隠れてはいるが、そこには無駄なく鍛え抜かれた体が存在しているのは明らかだった。
「言っておくが、俺は女なんかじゃない。昨日も同じ事を言った。今後俺が言うことは一度で覚えろ」
「おおお? あー、ちょっと残念だけど・・・ まァなんだってイイや! よろしくな、ベッピンさん」

これが二人の「必然」の始まりだった。


 


          二

眼下に広がるのは、どこまでも果てしなく続く紺碧の森。
背後に控える旭日はまだその姿を荒野の果てに潜めており、生い茂る木々と深い夜空との境は何処にあるのか、互いに溶け合い世界を包み込んでいる。
足元から吹き上げる風はひやりと頬をかすめ、気を緩めればたちまち風に足を掬われ、底の見えぬ谷へと吸い込まれるだろう。

「・・・なぁ、おい」
先程からだんまりを決め込んでいる黒尽くめの人物に、痺れを切らしたイズモはついに声を掛けた。
「さっきから怖い顔して、一体何を企んでるんだ?」
半ば興味なさ気に、しかし愉しげに問いかける。
「・・・お前を呼んだ覚えはない。さっさと戻れ」
イズモの方を見るでもなくそう言い放ち、そして長い間変わらず鋭い眼差しで森を凝視している。
彼がかなりの戦闘能力を備えている事を直感的に悟っているイズモは、彼がなぜ森の中の様子ばかりを伺っているのかが気になって仕方ない。
例えばこれが食料を得るために狙いを定めているのだとすれば、彼はすぐさま上等な肉を捉えて瞬く間に小屋に戻っているだろう。
その前に、もしそうだとしてもわざわざあのような灼熱の荒野に居を構える必要性はないのだが。
もちろんそれには他人であるイズモには到底解かり得ないなにか厄介な理由があることくらい承知している。そしてそれは決して許されざる事だという事も・・・

「どうでもいいけど、あんたそんなに体中から殺気を放ってたら、奴さんに気付かれちゃうんじゃない?」
頭を支えるように両手を後頭部で組み、イズモはにっと白い歯を見せて笑顔を向ける。
「お前は何から何まで癪に障る奴だ」
そう一人ごちると、ようやく彼はイズモへ向き直った。
「お前、自信はあるのか?」
そう問いかける瞳はまさしく血肉を切り刻む黒曜石の鋭い刃のようで、しかしその奥底には透き通る神聖な光をしっとりと含んでこちらを見据えている。
こいつは全てを賭けているのだと、瞬時に理解したイズモはその気迫に一瞬圧倒されたが、すぐに普段の無邪気な笑みを作り答える。
「まぁ、それなりには」
「そうか。お前を見込んで頼む。俺の、援護をして欲しい」
真っ直ぐに、静かに放ったその言葉には、彼のこれまでとこれからを左右する一切が込められていた。
「援護も何も、俺には命の恩人にお礼をしなきゃならないしね」
小首をかしげながら笑顔を作るイズモに、谷底から舞い上がる冷たい風が暁の誕生を知らせる。
いつの間にか空は藍染から茜色に変わり、空を泳いでいた星たちはゆっくりと次の夜へ旅立ち始めた。

「俺は、オグナだ」

そして朝は来た。





          

          三

いったん住処に戻った二人は、乾いた土の床に向き合って座っていた。
最初に話を切り出したのはイズモで、大陸から渡ってきてからここまでの間に遭遇したあらゆる出来事を取りとめもなく、半ば一方的にオグナへ聞かせている。
最初に下り立った所が出雲の国だったことから、こちらでの名前をその土地にちなんで付けた事、間男に間違えられて何度か襲われ捕らえられかけた事、女ばかりの村へ紛れ込んで否応なく女装させられた事。
そして、この国に渡ってきた本当の理由。
オグナは相槌もしない代わりに、イズモが話し飽きるまで席を立つことなく黙って聞いていた。
「ところで、ちょっと腹減ったなぁ・・・これ、イイ?」
イズモは少し申し訳なさそうに、床に置かれている籠から果物を取り出す。昨日介抱された時に食べ切れなかったものがまだ少し残っていた。
「好きなだけ食えばいい。俺には必要のないものだ」
そう言うとオグナは立ち上がり、外へ出て行こうとする。
「え?ちょっと、必要ないって、あんた肉食獣?」
「バカが」
振り返り様に言い放つと、すぐ戻ると付け加えて炎天下の中へ消えていった。
残されたイズモは、やはり見た事もない甘い果実を口に含みながら、意味もなく頭をひと掻きした。

オグナが戻ったのは、イズモが食事を済ませてひとつの夢を見終わる頃だった。
ひとしきりのんびりと寛いでいたイズモは、オグナの姿を認めるとにんまりと笑いながら頬杖をついて問いかける。
「そろそろ、話してくれてもいいんじゃない?」
イズモは夜具代わりの敷布にごろんと体を横たえて、足だけを宙に遊ばせている。足には様々な色の天然石が嵌め込まれている装飾具が、足の動きと同調してカシャンカシャンと乾いた音色を響かせる。
「恩返しをすると言っても、誰かを闇討ちにしてくれとか、そういった類いの相談には流石に乗れないからね。ま、もともと盗賊みたいなもんだから、何かを盗んで来いって言うんならお安い御用さね」
そう言って得意げな顔をしながら、何もない空間から何かを掴み出したような素振りを見せる。
オグナは昨日と同じように黒装束を肩まで下ろし、甕からひと掬いの水を喉に流し終わると、その状態のまま微動だにせず土壁の一点をじっと見つめている。
そして振り返る事もせず口を開く。
「さっき俺に、今まで経験してきた色々な話を聞かせていたな」
そう問うた声はどこか物憂げで、心なしか震えて掠れているように聞こえた。
「あ?なんだ、ちゃんと聞いててくれたんだ。てっきり死人に話してるのかと思ってたんだけどなぁ」
わざとふざけた様子を見せたイズモは、彼の横顔が徐々にその長い黒髪に隠れていく様子を静かに眺めていた。

「お前の記憶というものはいつから作られている?」

声の主はやがて意思を持たぬ人形のような音を口から落とし始める。
「記憶というものは、後から誰かに植え付けられたものかもしれない。自分が認識しているものの大半は、誰かの意思によって作り出されたものなのかもしれない」
「お、おい、何言ってんだよ・・・」
オグナの異常にイズモは慌ててその身を起こし、足早にオグナの傍へ近寄る。
それに気付いてか、オグナは突然その体を翻し、イズモに向かって力いっぱい拳をぶつけ始めた。
わけもわからず、しかしただ殴られているのでは埒も明かず、イズモはオグナよりも一回りも大きいその手で彼の拳を受け止める。
動きを制されたオグナはようやく体中の力を抜き、そして乾ききった地面を睨みつけながら立ち竦んでいた。

「俺には・・・記憶というものがない」


日は中天に何者の妨げもなく鎮座している。
砂塵の舞う大地は、水乞いの術さえも疾うに忘れ去ってしまったようだ。
ここから西へどれほど歩けばあの森海へ辿り着くのか。
同じ地上に存在する対の世界。彼岸と此岸の絵図。
世界の果て、この世の終わりがあるのだとすれば、ここはまさしくその地に相応しい場所なのかもしれない。
落ち着きを取り戻したオグナは、黒衣を脱ぎ、普段通りの衣装でイズモと対峙して座っている。
二人の間を流れる時間は動く事をやめてしまったかのように、無音で、無機質に漂う。
そしてオグナは、その陶器のような口をようやく開き始めた。

「お前がこの国のことをどこまで知っているのか、俺にはわからないし関係のない事だ。だが、この国にも現実に呪術というものは存在する。恐らく大陸のものとは全くの別なものだろう。
土霊兵というものは知っているか?これは土に滲み込んだ死者の念を抽出し、それを『精気』として人を超える力を与えた土偶の兵士だ。遠隔地から術者が念力で操り動かす土塊の奴隷といったところだ。だが、これを作り出すためには数えきれないほどの犠牲を伴う。
生贄だ。
術者は無差別に人間を選り、生き埋めや火炙りなどといった、およそ『贄』とは呼べぬような惨いやり方で彼らを殺す。そうすればその者達は謂れの無い突然の仕打ちに憎悪の念を募らせて果てていくのだ。さらに、その者と関わりの深い人間もまた、恨み憎しみを育てて術者へ仇討ちをなそうとする。そこは力のあるものを雇い、簡単に殺してしまえばいい。そういった人間の本質から外れきった行いを繰り返す事によって、土霊兵の素材は延々といとも簡単に確保されるというわけだ」
そう話すオグナの声は、普段にも増して感情を持たず、何か特別な、異質なものに感じられた。
この世に存在する全てのいきとし生けるものはみな、意義や理由を持って必然的に存立している。そして生命のあるものは総じて魂を宿す。海も空も、石や風にも魂魄は厳存し、森羅万象はあまねく全生命によって形成されているのだ。
それがなぜ、この目の前の人物からは命の温かさが感じられないのだろう。
イズモは無意識に体を緊張させる。
肩の筋肉が張り、背筋が凍て付いたかのように冷えていく。
手足には血が巡っているのかさえも解からなくなってきた。
そんなイズモをよそに、オグナは淡々と話を続ける。
「土霊兵とは別に、土霊器というものがある。原料は同じだ。しかし決定的に違うのは、土霊兵は死者の念を抽出して作った土偶という土の人形を操るのに対し、土霊器は生きた生身の人間にそれを埋め込み、そしてその対象に人を超える力を与える。これを埋め込まれた人間は奴隷よりも更に残酷な扱いをされ、生きる屍と言ってもいい程、人としての精気を失う」
まるで、遥か彼方にひっそりと佇む一本の老木を渇仰しているかのような、比類なき純真さで思慮深い目をしているにも拘らず、それでもオグナから感じ取れる生命の息吹は枯渇していると言うより他にない。
それまでオグナの話を黙って聞いていたイズモだが、あまりの異質な雰囲気に耐え切れず口を挟む。
「その妖しげなものの存在は解ったよ。で、あんたはそのへんなものを作り出す術者とやらを目の敵にしてるってこと?」
黒い衣装で殆どが隠れてしまっている自らの手元ばかりを見ていたオグナだったが、この時漸くイズモの方へと視線を向けた。
「ひいてはそうなるのかもしれない。人を不幸の淵へと追い込んでいる本源だからな。だが・・・」
そこまで言ったオグナは暫く黙り込み、そして再びイズモから目を逸らし、今度は小屋の入り口から差し込む光を眩しげに見つめる。
そして静かに口を開く。

「俺は・・・俺には、元となった人間がいる」

緩やかに流れ込んでくる昼の風は汗ばむ素肌に心地よく、何もかもを忘れさせてのどかな安らぎを誘ってくる。
草木は申し訳程度にしか見当たらないこの場所で、こんなにも爽やかな風がやってくるのは自分の体温が相当高いせいなのだろうかと、イズモは己の首を左手でさすって確かめる。
これから語られようとするその話を、出来ることなら聞かずにすむ方法は無いのだろうかと考えながら、それでも真実を知りたいと思うその好奇心を自制することはできなかった。

「俺は、その元となった人物の実験台として作られた土霊兵・・・そして、更に土霊器をも埋め込まれた、間違う事なき正真正銘の人形なんだ」

イズモは目の前が黒く渦巻く闇夜に飲み込まれるような、ぬめりを帯びたえもいわれぬ感覚に襲われ、暫くの間息をすることさえ忘れてしまったかのように微動だにすることさえ出来なかった。






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